国際シンポジウム「クール・ジャパノロジーの可能性」:東京工業大学 世界文明センター
2010年3月6日(土)「日本的未成熟をめぐって」
まずは理解するための手がかりとして、情報をいくつか。
・この発表は1993年出版の『サブカルチャー神話解体—少女・音楽・マンガ・性の30年とコミュニケーションの現在』に依拠している
・前日の発表では以下のような論点が出されていた。1977年以降を「自己の時代」ととらえてみる。
自己の時代とは、現状評価のものさし=自己のホメオスタシスの可能性になる(具体的には宇宙戦艦ヤマトを想定しているとのこと)時代である。
この頃から徐々に、現実と虚構に対する態度としてナンパ系とオタク系という系譜が生じてくる。
ナンパ系:現実を虚構化している。つまらない現実をデコレーションしている。ゲーム的に生きる
オタク系:虚構を現実の代わりに生きるそして95年の地下鉄サリン事件までは、ハルマゲドンの時代であった。
しかし、96年からはポストハルマゲドンの時代に突入し、オタク系がさらにセカイ系とバトルロワイヤル系に分離した。
これは自己のホメオパシスという観点から「世の中を変えよう」と世界に働きかける態度ともいえる。
セカイ系:世界の謎の解決を自己の謎の解決へと短絡する態度。エヴァンゲリオン。
バトルロワイヤル系:現実をゲームのように生き、現実を虚構とみなす態度。
ナンパ系とオタク系、セカイ系とバトルロワイヤル系は実は構造上似ていて入れ子になっている。
オタク系の中で虚構と現実をどのようにみなすかでセカイ系とバトルロワイヤル系に分かれていったともいえる。
セカイ系もバトルロワイヤル系もそもそもオタク系であり、虚構を自己ホメオパシスのために使うが故に現実の差異(例えばエスニシティやジェンダー)を無関連化するという点では共通である。
このため、国を超えて「ハード」な状況におかれているマイノリティがオタクに共鳴しやすいのではないか。
ー以下講演のメモー
常習的な援助交際ブームは96年がブームで、現在は臨時の援助交際がメインになっている。その96年はオタク系とナンパ系の区別の逆転が生じてくる時期でもある(ナンパ系が痛い存在になり、オタクがおしゃれになるということが起きてくる)。2000年代には秋葉が観光地になるように現在ではオタクがメジャー化しているが、その端緒がこの時期にある。これはカワイイカルチャーの終焉だと宮○氏には感じられた。なのでそこから"降りる"事にし、その後研究の方向性も変化していく。
関係性や共同体などが重要だという立て前があったときには、それに対するアンチorカウンターとして機能する「カワイイ」は解放であり得た。しかし、90年代後半には「カワイイ」を共有する事でコクーンを作り回避するべき現実のキツサというのが変わってしまった。その結果、カワイイというコクーン(あるいは現実の虚構化)というものが必要なくなる。
このことの関連として1973年に創業したパルコについても触れておきたい。渋谷の公園通りというのはパルコが開発することによってつけられた名称であるが、それまであのエリアはトルコ風呂街だった。それがおしゃれな劇場空間にかわっていった様子を、当時麻布高校の学生であった宮○氏は通学の途中でつぶさにみていた。
それを見て「堤清二はさすがに解放の騎手であって、所詮現実はつまらないけどもそれを虚構化するというなんでもありへの一歩をトルコ街を劇場空間に開発する形で踏み出したのだなぁ」と感じていた。しかし、その後ナンパ系的なカップルカルチャーが席巻する事で、オタク的な存在(=現実を読み替えて進んでいくのが難しい人たち)の方が虚構をうまく使うようになってきた。
昨日から何度もいうが、現実をうまく生きられない人が虚構に向かうのではない点に留意されたい。現実を虚構化するか、虚構を現実化するかの違いに過ぎない。
ナンパ系の方がオタク系よりもエライという感覚が消える96年に、カワイイというものも終わった。その後出てくるのがバトルロワイヤル系といえる。しかし、それまでのジャパニーズポップカルチャーが持っていた普遍性をバトルロワイヤル系が発揮できるかは微妙なのではないのか。
ーメモここまでー
感想メモ:
公園通りを通って麻布高校って…どういうルートで通学してたんだろ?渋谷からバスにのって西麻布で降りて徒歩?現在の麻布の学生の多くは日比谷線で通学してるっぽいけど、日比谷線は渋谷通ってないんだけどなぁ…。昔は麻布高校違う所にあったのかなぁ。
宮○さんはナンパ系がキライだったようだ…。あず○さんはむしろ健全な感じすらするんだけど、宮○さんはなんかじとっとしてる感じがある気がする。「偽物と戯れるしかない自分たちへの自覚」が前提にあるんだけど、この認識があんまり共有できない。人生は楽しいよ、おにぎりうまいし。宮○さんは幸福=消費っていう図式から離れらないように見えてしまう。あず○さんはこの辺り乗り越えてる気がするんだけど、なんでなんだろねぇ。世代の違いかね。
偽物/本物という対立を前提にすると「未成熟さ」が成長の呼び段階という位置づけに固定化されてしまうことになるのではないか。現在のジャパニーズポップカルチャーは「未成熟」でありながら「成熟」という価値を無効化しているところが外国人の眼には「スゲー」と見えるらしいのだけども、宮○さんのロジックでこの海外からのジャパニーズポップカルチャーに対する評価を位置づけられないような気がする。
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